古くから沖縄県民の拠り所となっている「琉球八社」とは?

拝みの文化を大事にしてきた沖縄は、現在でも各地に数多くの拝所(うがんじゅ)が残されています。

沖縄の島を建てた神とされるアマミキヨが最初に降り立ったとされる、沖縄本島の聖地・大石林山(だいせきりんざん)には、その敷地内だけでも40カ所以上の拝所があります。
アマミキヨは、その後、沖縄の島々や7つの御嶽(ウタキ=祈りの場所)をつくりました。そのときにつくった御嶽のうち4つが残る南城市の離島・久高島(くだかじま)に降り立ったことから、久高島は現在も「神の島」と呼ばれています。

その後の行程は、久高島から海をわたってヤハラヅカサの浜に上陸し、近くの浜川御嶽(はまがーうたき)に仮住まいし、玉城仲村渠のミントングスクに定住したと伝えられています。

今回は、その拝みの文化が色濃く残る沖縄に伝わる「琉球八社」について紹介します。

波上宮(なみのうえぐう)

波上宮/写真提供:波上宮

波上宮は那覇市の若狭にある神社。ご祭神は、熊野三神の「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」です。

波上宮の創始年は不詳ですが、古来、沖縄の人たちは海神の国(ニライカナイ)の神々に豊漁と豊作と日々の平穏な生活を祈りました。その祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端で、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まるとされています。

狛犬代わりとなっているシーサー/写真提供:波上宮

波上宮には「往昔、南風原(はえばる)に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な“ものを言う石”を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城(はなぐすく)とも呼んだ》に至った時に神託(神のお告げ)があった。即ち、『吾は熊野(くまの)権現也(ごんげんなり)。この地に社を建てまつれ、然(しか)らば国家を鎮護すべし』と。そこで里主は、このことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った」という伝説が残っています。以来、中国や南方、本州などとの交易の拠点となった那覇港の出入船の際には、波上宮の高い崖と神殿を望み、航路の平安を祈り、航海無事の感謝を捧げたといいます。

この波上宮も先の大戦で被災しましたが、1953年に御本殿と社務所が、1961年には拝殿が再建され、1993年に平成の御造営として再々建が完成しました。今では初詣や各神事において県民の拠り所であり、観光客にとっては観光スポットの一つとしてにぎわっています。

沖宮(おきのぐう)

沖宮/写真提供:沖宮

那覇市の奥武山公園(おうのやまこうえん)内にある神社で、相殿中央には天照大御神(あまてらすおおみかみ)、相殿左に父母の御神、相殿右に三体の乙女大御神(おとめおおおんかみ)、熊野三神の「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」が祭られています。沖宮は天照大御神が降臨した聖地とされています。

沖宮も創始年は不詳ですが、1713年に琉球王府が発刊した「琉球王国由来記」によると、「15世紀中頃に那覇港内で不思議に輝くものを国王が首里城よりご覧になり、漁夫に命じて探らせると、尋常ならざる古木を得た」そうです。翌日の夜から水面が輝くことがなかったので、この地に宮社を建てて古木を祀り、以後、国王はじめ一般の尊崇を集め、特に中国往来の進貢船や薩摩往来の貢船、離島航路などの航海安全の祈願に尊信されたそうです。

沖宮は、創建当時、現在の那覇港にありましたが、1908年に築港工事のため、琉球八社の一つ・安里八幡宮の境内地隣域に遷座されました。その古式ゆかしい本殿は、1938年、伊東忠太(いとう・ちゅうた)博士の推挙で国宝に指定されましたが、こちらも第2次世界大戦により焼失してしまいました。戦後、1961年に通堂町へ仮遷座、1975年に現在の奥武山公園内に遷座されました。

今では沖宮は各祭事だけでなく、「学び舎」として、フラダンス、茶道、ボイストレーニング、写経、書道、三線、ミニ曼荼羅体験会など、沖縄県民の学びを目的に集う場となっています。

天久宮(あめくぐう)

天久宮/写真提供:波上宮

那覇市天久にある神社で、熊野権現を祭っています。天久宮は、かつて、銘苅村(めかりむら)に暮らす銘苅の翁子が、ある日の夕方に、威儀を正した法師を従えた気高い女人が山上から下りて来たというエピソードに端を発しています。

その山の中腹には泉があって水が流れている小洞があり、法師と女人はそこを訪れます。翁子が法師に何者かを尋ねると、法師は「自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上に住む者である」と答えたといいます。不思議に思った翁子は王の臣下にそのことを伝えると、王は虚実を確かめるために役人に洞窟に向かって香を供するよう命じます。すると、香が自然に燃えたので外に社殿を造営して祭ったといいます。さらに後日、「我は熊野権現なり。衆生の利益のために顕現した。女人は國家の弁財天である」と神託があり、社殿を建立し祭ったといわれています。

戦前の社殿は1944年10月に沖縄戦で被災して消失しましたが、1972年に本殿が建立されました。本殿の上には、「龍宮神」の拝所、「辨財天」「権現堂」もあるので、一緒に参拝しましょう。

安里八幡宮(あさとはちまんぐう)

安里八幡宮/写真提供:波上宮

那覇市安里にある神社で、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、玉依姫尊(たまよりびめのみこと)を祭っています。

第6代琉球国王・尚徳王の時代、鬼界島討伐に際して、村の老人の言葉により、「弓矢を射て鳥を落とし、猟犬を先兵として出陣」しました。鬼界島へ向かう海路で浮かんできた小鐘を手にして本懐を遂げて帰国した際に矢を立てた場所に霊社を建て、小鐘と神通矢を垂迹として八幡大菩薩と号して奉じたのが安里八幡宮の始まりとされています。安里八幡宮も沖縄戦で被災全焼して、再建されました。

また、安里八幡宮は“弓矢八幡”とも呼ばれ、「武の神様」として、弓道、剣道、柔道、空手、野球、サッカーなどスポーツの上達、稽古の安全、競技大会での勝利祈願をはじめ、学力向上、入学試験や各種資格試験の合格、交通安全、犯罪防止、火災予防など、幅広いご加護をもたらしてくれる神様として多くの参詣者が訪れています。

識名宮(しきなぐう)

識名宮

那覇市繁多川(はんたがわ)にある神社で、「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」のほか、「午ぬふぁ神」と「識名女神」を祭っています。

その昔、繁多川のエリアが含まれる古真和志間切識名村は広々とした荒れ野原で、人家はありませんでした。そんな中、その地から光る物があって北斗星と牽牛星の間にまで光射していたといわれています。

識名宮 社殿

ある時、近くの村に住んでいた崎間知之の妻・大阿母志良礼という人が密かにこの光る物を見に行くと、一つの洞穴が。その洞穴には賓頭盧(びんずる)が一体安置されていましたが、大阿母は光の元はきっとこの賓頭盧に違いないと思い、これを深く信仰すると、不思議なことにいろいろな願いごとがかなえられていきました。この噂を聞きつけた尚元王の長男・大具志川王子朝通尚康伯が病気平癒の祈願を込めさせると、日に日に病が癒やされて元気な体になったといいます。

その御神徳に対し、王子は自分の財を奉納して識名宮と神応寺を創建。その後、王府の計らいでこの宮寺が官社に昇格したと伝えられています。戦前の建物は、三間社流造り、本瓦葺きの建築で、沖宮本殿に類似していましたが、残念ながら、戦災で焼失しました。

戦後、識名宮奉賛会が発足して1968年に社殿が復興し、1972年5月15日の本土復帰の日、宗教法人識名宮となりました。

識名宮 社殿

末吉宮(すえよしぐう)

末吉宮/写真提供:波上宮

那覇市首里末吉町にある神社で、史料「琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)」などによると、尚泰久(しょうたいきゅう)王の頃、鶴翁和尚(かくおうおしょう)が熊野三所権現「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」を迎えて祭ったのが始まりと伝えられています。

石畳の参道を登ると小さな谷を越す石橋が設けられ、本殿に続いています。その本殿は三間社流れ造りで、瓦葺きの木造建造物。本殿は木造の土台の上に築かれ、その前には非常に急な石の階段がなど、

また、神社の周りの森には“イベ”と呼ばれる聖地が転々とあり、境内地が古くから信仰の対象として崇められてきた様子をうかがい知ることができます。1997年に本殿の補修工事や彩色復元塗装工事が終わり、1999年に拝殿が86年ぶりに復元されました。

普天満宮(ふてんまぐう)

普天満宮 境内全景

宜野湾市普天間にある普天満宮は本島中部最大の聖地で、毎年正月、初詣の人気スポットとして多くの人でにぎわいます。中部はもちろん、北部の人たちの建築関係の諸祈願、結び(諸願成就)の神様として信仰されているのも特徴です。

創建については、普天満の洞窟に琉球古神道神を祭ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃に、熊野権現を合祀したと伝えられています。普天満宮の縁起伝承には、首里桃原に女神が出現し、後に普天満宮の洞窟に籠ったという伝承があります。

普天満宮 洞穴内奥宮

1945年、戦時中は当時の社掌が御神体を捧持して糸満へ避難し、戦後は社掌の出身地である具志川村(今のうるま市)田場に仮宮を造って祭り、その後、普天満の境内地が米軍から解放されると、1949年に元の本殿に還座しました。

個人の厄払いや企業の商売繁盛などのほか、結婚式も行われるなど、県民の節目には欠かせないスポットとなっています。

普天満宮 本殿

金武宮(きんぐう)

国頭郡金武町(きんちょう)にある神社。金武宮も熊野三所権現「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」を祭っています。

ただ、この金武宮は創建当初から社殿は存在せず、真言宗の僧・日秀上人(にっしゅうしょうにん)が境内の洞窟「日秀洞(にっしゅうどう)」内に金武権現堂を創建しました。

日秀上人は修行を積んで真言宗の奥義を極め、観音所在の補陀落山(ふだらくさん)に行こうと小舟に乗り、琉球に漂着しました。その上陸した場所は波上か金武かは分かっていませんが、金武に通った日秀上人が、金武の地形が熊野山に似ているとして、洞穴内に金武権現堂を造ったといわれています。

那覇市から金武町まで広がる琉球八社は、ご覧の通り、熊野三神との関係が密接です。伝播の起源は明確になっていませんが、金武宮を建立した日秀上人のような本州から来た僧が伝えたのかもしれません。そんなルーツを想像しながら琉球八社を巡ってみるのも、またロマンチックですね。

参考図書:「拝所回り(ウガンマーイ)200選」(比嘉朝進著、風土記社)
参考サイト:「波上宮」公式サイト「沖宮」公式サイト那覇市観光資源データベース「天久宮」ごーやーどっとネット「安里八幡宮」「識名宮」公式サイト那覇市観光資源データベース「末吉宮」「普天間宮」公式サイト金武町公式観光情報「visitkintown」サイト

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